記憶と悲しみと死と。

昨年は飼っていた猫や犬が死んでしまって、今年はひとりぼっちになってしまった。猫や犬が死んだときには本当に悲しんだが、この悲しみ(いや別に猫や犬に限ったものではないが。)の意味は何だろうと考えると、記憶ということがそこに強く結びついているのかも知れないと言う考えに至った。

私の好きな作家の一人に清水義範がいるが、その作品の中でも忘れられないものが「シナプスの入江」だ。作品のストーリー(特にその結末)については賛否のわかれるところだが、清水義範がこの作品で提示している考え方は非常におもしろく、また個人的には「そうである」という実感を強く持った。それは、人間のアイデンティティは他人の記憶によって保証される、というものだ。

周りの人間すべてが自分のことをすっかり忘れてしまったらどうなるだろう?我思う故に我有り。そう、たしかに自分は存在しているのだろう。しかしそれは存在しているだけで、それ以上のものにはなりえない。ただ存在しているだけの自分など意味がない。1人称が1人称たる所以は、2人称、3人称があることにある。

さてこういう視点で死の悲しみを見てみると、まず人間は他者(猫でも犬でも、もちろん人間でも、もしかしたらモノでもよい)を一つの外部記憶装置ととらえ、かつこの外部装置を「自分を規定するもの」ととらえている、と考えることができる。例えば猫は飼い主にエサをねだる。このとき猫は飼い主を飼い主と認めているわけで、飼い主からしてみればこの猫は自分を記憶保存してくれている装置なのである。
そしてその装置と共に過ごす時間が長く、そして濃いものであれば、その装置は自分をより強く規定してくれるすぐれた外部装置なのである。

おっといけない、忘れていた。一つ前提条件を加えておこう。人間は生まれながらにして自分を保存しておこうという欲求があることにしておく。歴史に名を残す、なんてのはこの欲求の最たる現れだ。
逆にいえばこの欲求があるからこそ、外部装置は人間にとって大切なモノなのだ。

共に時間を過ごし、自分のデータをたくさん記憶してくれた外部記憶装置は非常に重要で、これを失ったときの悲しみは大きい。逆にほとんど自分についての情報をほとんど記憶してないようなモノは自分にとってさほど大きな意味はもたない。

こう考えると、人間の悲しみというものも意外にセルフオリエンティッドなものなのかなぁ、と少し虚しくもなる。
他にもいろいろなことを考えた気もするけど、なんだか眠くなってしまってどこかへいってしまった。さて、寝るとするか。

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